「エモさ」は票を集めやすい。
「事実はひとつだが、解釈は無数」と古今東西いろんな表現で言い尽くされてきた通り、人が語ることはひとつの解釈にすぎないのに、やたら賛成される解釈には、ほぼ「エモさ」がくっついてきている。
この「エモさ」が見え隠れする解釈が私はなんとなく苦手である。
とはいえ「エモい映画」「エモい本」「エモい音楽」に出くわす確率はなかなかなもので、そのとき、僕はおかしいことに「劣等感」を感じてしまう。
素直に感じれない自分が「おかしい」「欠落している」「ひねくれている」と思ってしまうのだ。
時間がたてば、「エモさが苦手な自分が出ただけ」だと分かるのだが、渦中にいる間やその後の数日は変な罪悪感に苛まれる。
さて、そんな面倒な私だが、仏教、とくに原始仏教は「エモさ」から離れて素直に感動できる。
しかも後からじわっと「エモくなる」というおまけまでついてくる。
これがたまらなく心地いい。
一方、日本の仏教に目を移すと、かなり全面に「エモさ」が出ている気がする。
だからちょっと距離を感じる。
日本の仏教は大乗仏教(迷える衆生を救う教え)なので、きっと開祖の方がそのときの時代に必要なことをやろうとしたときにエモくせざるを得ない(または、意識せずそうなった)のであろう。
これから大乗仏教、特に浄土真宗を勉強していくことになると思うが、たぶん、最後にまた原始仏教(もしくは密教、真言宗)に戻ってくるのであろう。