仏教に造詣が深い方と勉強会をしている。
その方が「人生の目的は唯一であり、絶対の幸福になること」と断言されていることがずっと引っかかっていた。
まあ、たぶんそうだろうなぁ、と分かるこは分かるが「うーん、なんか気持ち悪い」と引っかかっていた。
そしてあるときその気持ち悪さに気が付いた。
それを人生の目的に据えた瞬間に、「今は(且つしばらくは)幸せでは無い自分」が固定化されてしまうのだ。
固定化された自分を作れば、仏教で法とされる「縁起の道理」から外れてしまう。
つまり、理屈から言って、仏教的に幸せにはなれない。
では、どうすれば良いのか?
ただひたすらに、法を学べばいい。
そして大事なのは、自分で、気軽に、好奇心をもって、自由に学ぶことだ。
自灯明法灯明の「自灯明」である。
盲目的に従うのは自灯明ではない。
別に仏門に入らなくていい。
どんなルートから行ってもいい。
ただ、自分が納得するように、様々な体験を通して法を学べばいい。
すると、あらゆる場面で、自分が固定化したジャッジをしていることに気付く。
結果、固定化した自分は薄れていく。
さらにその先に、「あぁ、自分はずっと初めから幸福だった」と思い知らせれる瞬間が訪れるのである。
「幸福になりたい!」はきっかけとしてはOKだが、ずっと求め続けるものではない。
求め続けるという態度がそのまま執着となり、呪いとなるのだ。
とまぁ、理屈を書いてみたが、気分で断じると、「幸福になりたい」ってのは暗い。
じめじめしている。
粋では無い、まさに無粋な態度。
エヴァンゲリオンのシンジ君。
うぜえ。
本来、仏教を学ぶことは楽しいことだ。
これは宇宙の通りを学ぶことであり、ワクワクとセットである。
だが、これを「自分が救われるため」という小市民の不安を掻き立てて学ばせるのは、悪質。
まさに「権威的な布教行為」として唾棄すべき行為である。
本来の仏教はそういう態度とは一番遠いものである。