「友人」という言葉から気づいたこと

最近、中学校で中学生たちと一緒に作文の授業を受ける機会に恵まれている。

お題に対して自由に意見を述べ、いかに説得力を出すか、という訓練をする場だ。

正解が無いので、何を述べても良い。

自分が中学生の時にこんな授業があれば良かったと、つくづく思う。

さて、その中で「友人は多い方が良いか、少ない方が良いか、どっちか選んで理由を述べよ」というお題が出た。

自分の中では脊髄反射的には「親しい少ない友人が良いでしょ」と思ってしまうが、逆を述べても良いのがこの授業の面白いところ。

どっちにしようかなと考えていたときに、まずは「友人」の定義から始めようと考えた。

言葉の定義は深く思索するときの大事なポイントだ。

腕組みしてあれこれ考えているとき、「ん?」と気づいた。

「友人を定義することで分断が生まれてない?」ということだ。

ある人を友人と定義すると、それ以外は友人では無くなる。

そこに線が引かれてしまう。

まさに「分断」だ。

友人の定義に絶定性は無く、単純にそれは「妄想」である。

なるほど、なるほど。

親しさの度合いはある、確かにある。

付き合った時間の長さ、共通する感覚の多さ、体験の共有の数、等。

でも本当は全部グラデーションであり、そこに明確な線は引けないというのが真実。

そこに無理やり線を引くのが「友人(とそれ以外)」という言葉だ。

つまり親密度合い=グラデーションであるならば(というか、実際にそう)、ポテンシャル含めてすべての人が友人であると言えるのだ。

敬愛するインド独立の父ガンディは、初めて会うイギリス政府高官にも「昔からの友人のように接していた」そうだ。

ガンディはたぶん僕が気づいたことの100倍くらい深いところで確信しているのだろうが、おおよそ同じようなことだろう(畏れ多い💦)。

これに気付いてから、ちょっとだけ自分の行動が変わりつつある。

無意識に線を引いていた「友人」と「友人以外」が妄想であると理解。

すると「妄想である故、親しくない人に感じる心の壁は自分の課題にすぎない」ということ。

それは僕のコンフォートゾーンを守るための反応にすぎないのだ。

と、気付いたが、いきなり全人類に気さくに話しかけられるわけではない(笑)

(ガンディさん、ほんと半端ないっす)

ひとつずつ訓練が必要。

成功体験と失敗体験(長期的には「うまくいかない方法の発見」でしかないから、プロセスにすぎない)が必要。

やはり、僕にとっては「理解」がほんと大事。

「理解」すること(「気づき」とも言える)が、そのまま行動に転嫁される。

いつか行動によって「みんな友人」って体現したいな。


kotetsu

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